これまで何度か来るべき新しい世界について話してきました。
おおよそ30年も昔からです。
そしてその一つ一つが現実のものとなり、これまで話してきたことが間違っていないということを実感します。
ところがこれまで話してきた中で、あと一つ僕自身もまだこの目で確認していないことが残っています。
それがアメリカや日本の経済が破綻した後の世界です。
これから訪れる世界についてはもう既に話しています。※実際には悪足掻きの延命処置中なので未だ実現していない。
それはこれからこの目で確認していくことになるのですが、なぜここまで世界の流れが読めるのか?疑問に思う人が多くいます。
その答えはそれほど難しくもないのです。
なぜ世界の流れが読めるのか。少しお話しましょう。
寒い冬が終わるとやがて春が来るということは誰もがきっと確信する筈です。
これが自然の摂理です。自然の法則だから誰もが分かるのです。
ところが自然の摂理も突然狂うことがあります。それは人間の様々な過ちによって、環境破壊が気象に影響を与えたりした時です。
或いは、自然科学や天文学、その他諸々の科学の知恵で、単純な自然の摂理だけではなく、それ以外の例外ということも理解できたりします。
要するにあらゆる知識を集結することで、自然の摂理をより正確に理解することが出来るようになります。
そうです、世界の流れを理解するということもこれと同じようなものです。
世界の流れに関係する法則や摂理を理解することで、時代の流れやこれから訪れようとする世界が理解できるようになります。
ただし人間が起こす行動が世界の情勢へ反映する領域については、自然の摂理を判断するということとは少し勝手が違います。
なぜかと言えば、自然は本能で動いているので、その行動パターンについて理解しやすいですが、人間には本能だけではなく、自由意志というものが関係してきます。
本能と自由意志は同じ性質のものではありません。
ですから、この自由意志を持っている人間の関係する世界の流れには、若干の時間のずれが生じたりします。しかし、それでも流れの本流は変化することはないのです。
ただ自然だけではなく、この人間をも含めて働いている摂理、法則についてある程度理解しています。
ですから、これからの時代の流れを感じ取ることが出来るのです。
ところで、世界の流れが分かるという話をすると、このように反論する方がよくいます。
「そんなこと分かってしまうと面白くない」
このように答える方々は、全くことの本質を掴んでいないのです。
何も運命論を語っているのではなく、宿命論を語っているのです。
あなたがどんな人生を歩み、どんな人生を残すかは、あなた自身が決めることであり、あなたの人生の結論を言っているのではないのです。
それを言えば運命論になりますが、私は宿命論を話しています。
それを簡単に言えば、「人は誰もが必ず死ぬ」というようなことが宿命論です。
あなたとあなたを生んだ親は変える事は出来ません。
これは宿命であり、運命ではありません。
更に言えば、私の語っていることは、人間の素晴らしさを語っているのです。
優れた機能を持った車に乗っているのに、もしその車の機能を理解していなければ、宝の持ち腐れなのではないでしょうか?
よく取扱説明書をよく読まないで、故障してから後悔する人がいますが、それと同じようなものではないでしょうか?
人にはそれぞれ成長の時というものがあります。
生まれたばかりの赤ん坊に、これは美味しいですよ~と言って、カレーライスを食べさせたり、ステーキを食べさせたりすれば、消化不良で死んでしまうことになる可能性がありますが、私が講演会で話す内容もそれと同じです。
無理強いしても消化不良を起こすだけで、かえって理解できるものも、反発心や偏見でだけ捉えてしまい、伝えようとしていることの本質が結局伝わらないで終わるからです。
それよりも成長の時というものを待って、何でも聞いてみるぞという柔軟な心の姿勢が出来た時に聞けばいいのです。ですが、いつまでも時は待ってくれません。
冬が過ぎ、誰もが春を迎えていても、春の訪れを知らずに、夏が過ぎ、秋になって、扉の外に出ても、また冬を過ごすということを繰り返してしまいます。
時は刻一刻と過ぎていきます。
頑なな心を持った人よりも柔軟な心を持つ人のほうが本当の自分を見つけやすいのは、このことと同じようなものではないでしょうか?
地球巡礼者になるために必要なこと・・
巡礼とは重い荷を背負わずに、常に身軽に旅をすることです。
それはリュックサックやバッグに入れる荷物が少ないという意味だけではありません。
荷物を減らすのは簡単ですが、頭の中にこびりついた考えを減らすのはとてもむずかしいことです。
頭の中を軽くして旅をすることが、身軽に旅をすることになります。
それができれば、巡礼者になれます。
運命は支配できない超越する変容を受け入れることこそアース・ピルグリム(巡礼)の精神なのです。
ピルグリムは、すべての状況や条件、出遭いは学ぶための機会になると考えます。
避けたり、放棄したり、怖れたりするような出遭いや苦痛、困難はないということです。
否定的なことでも肯定的なことでも、愉快でも不愉快でも、すべてが自らを悟り、学び、自らを清め、魂や精神を強くするためのチャンスとなるのです。
厳しい状況や困難があるからこそ、人格が形成できるのですから。
人間は支配したいという欲求を持ちます。
自然を、事象を、未来を、他人を、運命を支配できると信じています。
支配したいという欲求と、そう信じることは、ある種の傲慢であり、自分勝手です。
支配なんてできないことを学ぶのです。
大宇宙のプロセスに委ねればよいのです。
人間はこのプロセスに参加する一員なのです。
人間がそれを支配すべきではないのです。
インドでは、死ぬために断食することが許されている。
それはジャイナー教とヒンドゥー教からの伝統なのです。
死ぬための断食は自殺ではありません。死を受け入れることです。神聖な伝統なのです。
人間は死を怖れすぎているように思います。
現代の医療は、ありとあらゆる技術や薬を使って延命しようとします。
そうした医療のあり方は、死を怖れ、憎む現代人の考え方を象徴しています。
死ぬことは悪いことではありません。
人間は皆いずれ死ぬのですから、幸せに死んでみようではないですか。
いずれは誰もが死ぬのだから、どうして悲しみや憎しみの気持ちで死ななければいけないのでしょうか。
死を憎むというのは間違っています。
死はいいことです。
死ぬことも生きることも愛するべきです。
両方とも同じ、一枚のコインの裏表です。
物質と精神と同じように、生と死も表裏一体であり、死も生の調和に含まれているのです。曹洞宗の宗祖・道元も「仏とは何者か?」と聞かれたとき、「生と死である」と答えました。
シンプルで美しい答えです。